うにぶろっさむ
登れない登れない。 登れないのなら浮かべばいいじゃない! ふろーとふろーと
2014
October 20
October 20
溺れる人にたいして、てをさしだすというのは人としてあたり前のはんのうではないか、とふと思いました。
止められたくなければ、荒れる川で泳ぐなんてことはするべきではありませんね。
辛いこともないですが、楽しいこともたいしてないです。
怒ることもあんまりないです、人とかかわり合いがないです。
怒っても自分の非がないことが少ないです。自分にも落ち度があるのに怒るのはなにか違うような気がしてなりません。
そもそも怒る、と言うより不快と言ったほうが正しいのかもしれません。
相手に対してそれをぶつけようとすると、そもそも相手に喧嘩や文句を言うために、過失を探していたのではないかということが、頭をよぎってどうでもよくなります。
怒る、叱る、反論する、ということはある程度人とかかわり合う中で必要なことだと思います。相手を思うならばそれをするべきときもあるでしょう。それをしないというのならば、それは関係を軽んじているのではないかとも思います。
それをしないということは、どこかしらで面倒だと感じているのかもしれません。
ポジティブな考えをすれば考え方が変わる、そう思い実践していますが、前を向かないポジティブにもネガティブにも意味はないと考えます。
ある種の諦観から来るポジティブなんてものは、停滞するためのものでしかないのです。現状を肯定する意義とは前に進むための負担を軽くするということです。そこで前に進むならば、前の壁も柔らかくなっている分、進みやすいのでしょうが、もしそこで止まれば、足もともまたおぼつかないのです。
止められたくなければ、荒れる川で泳ぐなんてことはするべきではありませんね。
辛いこともないですが、楽しいこともたいしてないです。
怒ることもあんまりないです、人とかかわり合いがないです。
怒っても自分の非がないことが少ないです。自分にも落ち度があるのに怒るのはなにか違うような気がしてなりません。
そもそも怒る、と言うより不快と言ったほうが正しいのかもしれません。
相手に対してそれをぶつけようとすると、そもそも相手に喧嘩や文句を言うために、過失を探していたのではないかということが、頭をよぎってどうでもよくなります。
怒る、叱る、反論する、ということはある程度人とかかわり合う中で必要なことだと思います。相手を思うならばそれをするべきときもあるでしょう。それをしないというのならば、それは関係を軽んじているのではないかとも思います。
それをしないということは、どこかしらで面倒だと感じているのかもしれません。
ポジティブな考えをすれば考え方が変わる、そう思い実践していますが、前を向かないポジティブにもネガティブにも意味はないと考えます。
ある種の諦観から来るポジティブなんてものは、停滞するためのものでしかないのです。現状を肯定する意義とは前に進むための負担を軽くするということです。そこで前に進むならば、前の壁も柔らかくなっている分、進みやすいのでしょうが、もしそこで止まれば、足もともまたおぼつかないのです。
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