うにぶろっさむ
登れない登れない。 登れないのなら浮かべばいいじゃない! ふろーとふろーと
2011
August 06
August 06
価値観の押しつけ。
自分の価値観を相手に求めるのはエゴだけど、自分の価値観を知ってもらうのは大切…だよね?
どうしたら押しつけにならずに、相手に知ってもらえるのだろう?
淡々と趣味について語ればいいのかな、話せばいいのかな?
押しつけ…、好きなことでも嫌いなことでも押し付けは起こるけど、好きなことより嫌いなこととの方が押しつけになりやすい気がする。
だから好きなことを話すべきなんだろうね。
あー、相手にきいてもらおうとだけすると、だめなのかな?
1:1…とは言わないけど、ある程度の相互理解が必要なのかもしれない。
出し過ぎてもダメ、聞きすぎてもダメ。
みたいな?
そこに至るのはなんでだろう。
相互関係的にしか、互いの関係は上がらないから?
片思いが素晴らしい関係にならないようなものなのかな…。
自分のいやなこと話すって何だろう。
そういうのは、自分で抱えるべきなんじゃないかな?
でも、そういうのを抱えて、一人でだんまりするのもエゴなのか?
んー…自分だけで分かろうとするとエゴなのかな。
自分の価値観を相手に求めるのはエゴだけど、自分の価値観を知ってもらうのは大切…だよね?
どうしたら押しつけにならずに、相手に知ってもらえるのだろう?
淡々と趣味について語ればいいのかな、話せばいいのかな?
押しつけ…、好きなことでも嫌いなことでも押し付けは起こるけど、好きなことより嫌いなこととの方が押しつけになりやすい気がする。
だから好きなことを話すべきなんだろうね。
あー、相手にきいてもらおうとだけすると、だめなのかな?
1:1…とは言わないけど、ある程度の相互理解が必要なのかもしれない。
出し過ぎてもダメ、聞きすぎてもダメ。
みたいな?
そこに至るのはなんでだろう。
相互関係的にしか、互いの関係は上がらないから?
片思いが素晴らしい関係にならないようなものなのかな…。
自分のいやなこと話すって何だろう。
そういうのは、自分で抱えるべきなんじゃないかな?
でも、そういうのを抱えて、一人でだんまりするのもエゴなのか?
んー…自分だけで分かろうとするとエゴなのかな。
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2011
August 05
August 05
カードでもなんでもだけど、何かを達成しようとしたとき、あなたはどこを見ているのか、っていう問題。
例えばドミニオン。
場のカードを見て、どうゲームを決着しようか考えて、それを取るスタンス。
場のカードを見て、気に言ったカードを如何に使うかというスタンス。
場のカードを見て、自分の理論を如何に使えるか考えて使うスタンス。
場のカードを見て、如何に自分のしたいことをするかというスタンス。
いろいろあると思う。で、もし1つの正解があったとして、それにだれがたどり着けるか…って問題。
結論からいえば、全員たどり着ける。
だけどたぶん、その過程も、その結果に対する評価も、その成功率も違ってくると思う。
例えば、ゲームに勝つことを考える人は正しい理論にたどり着きやすいと思う。
だって、他のものに気を取られないから、自分の過程も見えやすいし、間違ってるかの把握も常にすると思うから。
理論を当てはめるタイプもやっぱり近づきやすい…、理論を作るには如何に情報を集約し、それが正しいかを確かめる必要があるはずだから。
逆に、正しい正解にたどり着けないのは、自分のしたいことをする人。それはやっぱり、自分のしたいことをに対して疑問を抱くことができないから…。
でも、もし正しい過程を全員が取った場合、一番強いのは自分のしたいことをする人なんじゃないかな…。
自分のしてることに対してエネルギーを与えやすい…、オカルトチックだけど、自分のやってることが正しいって思ってる人はやっぱり強い。
たとえ、正しい理論にたどり着いても、それを続けるかは別問題。っていうのもあるかも。
だって、それが正しいかはわかっても、一番とはわからないから。
それが一番じゃないかもしれないと模索する、その分エネルギーは分散されちゃう。
なんかオカルトだけどね…。
興味があることに対しては、すごい集中力を持つ。で、それが集中するか分散するかがわかれる。みたいな?
いまあげたの一つだけの人はいないと思う。でも、どちらかといえばこれっていうのはあるはず…。
逆のことを学ぶにはやっぱり他の人の話を聞くべきなのかな…。
自分の特性を知って、相手の特性を知ってみれば、目的の齟齬って少なくなるんじゃないかなぁ…。
まあ、それを知るのってすごい大変なんだけどね。
例えばドミニオン。
場のカードを見て、どうゲームを決着しようか考えて、それを取るスタンス。
場のカードを見て、気に言ったカードを如何に使うかというスタンス。
場のカードを見て、自分の理論を如何に使えるか考えて使うスタンス。
場のカードを見て、如何に自分のしたいことをするかというスタンス。
いろいろあると思う。で、もし1つの正解があったとして、それにだれがたどり着けるか…って問題。
結論からいえば、全員たどり着ける。
だけどたぶん、その過程も、その結果に対する評価も、その成功率も違ってくると思う。
例えば、ゲームに勝つことを考える人は正しい理論にたどり着きやすいと思う。
だって、他のものに気を取られないから、自分の過程も見えやすいし、間違ってるかの把握も常にすると思うから。
理論を当てはめるタイプもやっぱり近づきやすい…、理論を作るには如何に情報を集約し、それが正しいかを確かめる必要があるはずだから。
逆に、正しい正解にたどり着けないのは、自分のしたいことをする人。それはやっぱり、自分のしたいことをに対して疑問を抱くことができないから…。
でも、もし正しい過程を全員が取った場合、一番強いのは自分のしたいことをする人なんじゃないかな…。
自分のしてることに対してエネルギーを与えやすい…、オカルトチックだけど、自分のやってることが正しいって思ってる人はやっぱり強い。
たとえ、正しい理論にたどり着いても、それを続けるかは別問題。っていうのもあるかも。
だって、それが正しいかはわかっても、一番とはわからないから。
それが一番じゃないかもしれないと模索する、その分エネルギーは分散されちゃう。
なんかオカルトだけどね…。
興味があることに対しては、すごい集中力を持つ。で、それが集中するか分散するかがわかれる。みたいな?
いまあげたの一つだけの人はいないと思う。でも、どちらかといえばこれっていうのはあるはず…。
逆のことを学ぶにはやっぱり他の人の話を聞くべきなのかな…。
自分の特性を知って、相手の特性を知ってみれば、目的の齟齬って少なくなるんじゃないかなぁ…。
まあ、それを知るのってすごい大変なんだけどね。
2011
August 01
August 01
私はいろいろなことに気が取られやすい…。
だけど、その分何かを選択するのを後にできる。
これ、って物がないから、選択肢はまだある…。
だから、今やるべきなのは、選択肢をよりよく、広く取れるようにすることなのかな。
後は、やっぱりいろいろ見えてる、って言っても、それは表面的なことばっかり。
だから他の人がやってから、そんなことあったのか! って気がつくことがよくある。
それって見てることを良く考えてないってことなのかな。
選択肢を広く取ってあって、絞るのを後に回しているのだから、もっとちゃんと考えるのが大切なのかも。
後は、ほんとうに簡単なこと、考えるほどじゃないことに素早く回答できることも、ちゃんと考えるための時間を取るために必要なのかもね。
わかってることをぐるぐるして時間を潰してること、良くあるから…。
だけど、その分何かを選択するのを後にできる。
これ、って物がないから、選択肢はまだある…。
だから、今やるべきなのは、選択肢をよりよく、広く取れるようにすることなのかな。
後は、やっぱりいろいろ見えてる、って言っても、それは表面的なことばっかり。
だから他の人がやってから、そんなことあったのか! って気がつくことがよくある。
それって見てることを良く考えてないってことなのかな。
選択肢を広く取ってあって、絞るのを後に回しているのだから、もっとちゃんと考えるのが大切なのかも。
後は、ほんとうに簡単なこと、考えるほどじゃないことに素早く回答できることも、ちゃんと考えるための時間を取るために必要なのかもね。
わかってることをぐるぐるして時間を潰してること、良くあるから…。
2011
August 01
August 01
プロは手と目で切りこむ!
機械技術が向上しても、美って分解できないのかな?
伝統攻撃を生かすなら、人じゃなくて機械っていうか、技術に還元することなんじゃない? みたいな。
ドラッガーの本、冒頭だけ読んだけど…。
なんで、一般労働者な私たち(違う人もいるかも?)が昔の人みたいに、こき使われる立場じゃなくなったの? っていうのを生産力の上昇で説明してるのですよね。
マルクスが言った小金持ち、ブルジョワを労働者たちが打ち倒し、正当に労働者たちが評価される世界がくるだろう! って予言してたんだけど、そいつは間違いで、実際はそんなこと起きなかった。
で、それはなんで? ってなると、生活の水準が上がって労働者たちが前よりすごしやすくなったから、ってあるわけで。
まぁ、100年、200年前と比べたら、当時高級であった米とかいっぱい食べて、服も好きに買えて、列車とかも乗れるようになったよね。
で、生活の水準を上げたのが、生産に知識を応用したから、だって。
昔の知識って、例えば孔子とかみたいに悟ったり、自分の考えを相手に伝える、いわば自己発現の手段が多かった。
で、私たちの生活に関わるものは技術で、それは弟子になって何年も何年も修行しなくちゃ手に入らないものだった。しかも、それはいくら極めたとしても、その人が作れるものの量はあんまり増えなかったわけ。
それに対して、ここ数十年で起きたことっていうのは、技術を知識に還元することで、経験とかの比重を下げたうえに、生産量を増やせるようになった。
工場とかで技術の説明を受けて作業したり、工業大学が生まれたのが、知識を技術に応用したって言えるのかな?
まぁそんな感じで、すごい生産力になったから、知識を技術に応用できた国は発展しました!
まぁ、こんな感じに応用されている工場に入れば、中流の生活はとれた…。
だけーど、だけーど、これからはそれだけじゃたらない!
技術を如何に知識へ利用するかっていうのがこれからには必要なんだ!
使われる側から使う側へ、すべての人がなる。
資源とかそーゆーのは頭良ければ手に入るでしょ? だから、資源もってることがメリットにはなりにくくもなるよ。
そんな感じ…。
機械技術が向上しても、美って分解できないのかな?
伝統攻撃を生かすなら、人じゃなくて機械っていうか、技術に還元することなんじゃない? みたいな。
ドラッガーの本、冒頭だけ読んだけど…。
なんで、一般労働者な私たち(違う人もいるかも?)が昔の人みたいに、こき使われる立場じゃなくなったの? っていうのを生産力の上昇で説明してるのですよね。
マルクスが言った小金持ち、ブルジョワを労働者たちが打ち倒し、正当に労働者たちが評価される世界がくるだろう! って予言してたんだけど、そいつは間違いで、実際はそんなこと起きなかった。
で、それはなんで? ってなると、生活の水準が上がって労働者たちが前よりすごしやすくなったから、ってあるわけで。
まぁ、100年、200年前と比べたら、当時高級であった米とかいっぱい食べて、服も好きに買えて、列車とかも乗れるようになったよね。
で、生活の水準を上げたのが、生産に知識を応用したから、だって。
昔の知識って、例えば孔子とかみたいに悟ったり、自分の考えを相手に伝える、いわば自己発現の手段が多かった。
で、私たちの生活に関わるものは技術で、それは弟子になって何年も何年も修行しなくちゃ手に入らないものだった。しかも、それはいくら極めたとしても、その人が作れるものの量はあんまり増えなかったわけ。
それに対して、ここ数十年で起きたことっていうのは、技術を知識に還元することで、経験とかの比重を下げたうえに、生産量を増やせるようになった。
工場とかで技術の説明を受けて作業したり、工業大学が生まれたのが、知識を技術に応用したって言えるのかな?
まぁそんな感じで、すごい生産力になったから、知識を技術に応用できた国は発展しました!
まぁ、こんな感じに応用されている工場に入れば、中流の生活はとれた…。
だけーど、だけーど、これからはそれだけじゃたらない!
技術を如何に知識へ利用するかっていうのがこれからには必要なんだ!
使われる側から使う側へ、すべての人がなる。
資源とかそーゆーのは頭良ければ手に入るでしょ? だから、資源もってることがメリットにはなりにくくもなるよ。
そんな感じ…。
2011
July 31
July 31
死にたいけど、すごく生きたい。
未来を見たいけど、過去に戻りたい。
…根底にあるのは、返してほしい、かな。
でも、今持ってるものを返しても、それは元には戻れない。
というか、返せない。
満たせない欲求は、忘れるか、他のものに変えるくらいしかない。
でも、絶対忘れたくない、変えたくない。
変えたら、絶対帰ってこないから…。
帰ってくるもの、なくしてないものまで帰ってこなくなる気がするけど、新しいものをいろいろと否定しているのだろうけど、それでも私は…。
でも、こう思っていても、気持ちはぽろぽろと零れ落ちて、この記事を書いた気持ちも、次の日には忘れちゃう。
忘れられる、って幸せだけど、とても悲しい。
未来を見たいけど、過去に戻りたい。
…根底にあるのは、返してほしい、かな。
でも、今持ってるものを返しても、それは元には戻れない。
というか、返せない。
満たせない欲求は、忘れるか、他のものに変えるくらいしかない。
でも、絶対忘れたくない、変えたくない。
変えたら、絶対帰ってこないから…。
帰ってくるもの、なくしてないものまで帰ってこなくなる気がするけど、新しいものをいろいろと否定しているのだろうけど、それでも私は…。
でも、こう思っていても、気持ちはぽろぽろと零れ落ちて、この記事を書いた気持ちも、次の日には忘れちゃう。
忘れられる、って幸せだけど、とても悲しい。